節分大祭といえば、豆まきと恵方巻きだが、全国規模でこれほどまで大切にされ、神道・仏教問わず、最も普及されている祭事は節分大祭ではないだろうか。
日本の国民のみならず、地球市民の大祓いの神事ともいえよう。宗門・宗派などによって多少形式は異なるが、一年間たまった私たちの心の塵や埃を祓い浄めてくださる儀式だ。
2024年は辰年という事もあり、数年ぶりに祭りに参加させていただくことにした。田舎の家からもそう遠くはない、奥丹波の綾部・梅松苑に向かった。
こちらは大本本部の敷地内であるが、節分人型大祓の神事は、20世紀最大級の木造建築物として誉れ高い『長生殿』において毎年斎行されている。
あちらこちらに、まだ、1月後半に降った大雪の残雪が、寝雪となって少し残っていた。
節分人型大祓|言葉や想念行為による過ち
宗教組織としての大本は教派神道だが、明治25年の開教当初より地元では馴染み深い道風で、信徒ではない私たちでも信仰の有無を問わずお祓いはしていただける。
お祓いはメモ用紙くらいの大きさの和紙の人型に自分の名前を書き、身代わりとして浄めてもらう。何万枚という和紙の人型は、数百人の祭員と瀬織津姫(巫女)方々によって、夜通し奏上される大祓祝詞とともに一枚一枚ていねいに祈願を込められる。そして、素焼きの壺におさめられ近くの和知川まで運ばれて、流し雛が行なわれる。
身代わりの流し雛は川をつたって日本海に届き、海の大神様が災難を祓い、洗いざらい全て清めてくださるという、雄壮且つ大がかりな御神事だ。
私たちは日常の何気ない言葉や想念行為によって、知らないうちに天地自然の気を混沌とさせ、人を傷つけたり、やがて災いをもたらす悪の種を不用意にバラ蒔き続けている。
自らを省みない人類も、ここまで来ればもう恥を忍んで、大宇宙・天地自然の親神さまに過ちを悔い改め、救いをお願いするしか手の施しようがないところまで、行き詰まってはいないだろうか。
豆まき|鬼はうち!福はうち!
この日は風も無く穏やかで、夜中でもそんなに冷たくなかった。
そして祓えの儀式が全て終わってから、明け方4時頃に豆まきが始まる。その時の掛け声が「鬼はうち!福はうち!」だ。
大本では『鬼』イコール悪では無い。『鬼』は人類が目覚め意識の夜明けを迎えるために、これまで長きにわたって『悪役』に徹し『損な役回り』を引き受け続けてくれた『日本の国祖神』(艮の金神)のことだと言い伝えられているのだ。世界が暗黒の大峠を乗り越えるために、日に陰に慈愛のはたらきを降り注ぐ、その神徳は途方もないという。
私は豆まきの時間帯まで体力が続かず、1回目の流し雛が終わると、そのまま家に帰ってしまった。
田舎の家に帰宅して、ほっと一息。そして、ストーヴで暖を取りながら、とりもなおさず夜中にがぶっと恵方巻きを頬張って疲れを癒した。
耀盌(ようわん)|出口王仁三郎の楽焼き
今回、本当に運がよかったと思えたことは、節分大祭の儀式が始まる直前に、たまたま偶然立ち寄って参拝させていただいた教主館の館内に、大本の二大開祖のうちの一人、出口王仁三郎聖師が最晩年に制作された、楽焼き茶碗『耀盌』(ようわん)が展示されていることに気づいたことだった。言霊の祈念を込めて作られたという『耀盌』(ようわん)は芸術作品としても頗る評価が高い。
しかも、その数30点程が展示されていた。ガラスケースなどに入っていない、こんなにたくさんの『耀盌』(ようわん)を一同に観せていただけるとは。眼の前で直に拝見できたのは、初めてのことだった。
まさか!と驚いた!
受付の方も仰っていたが、今年は展示されている点数が多いと。一説に3,000個以上焼かれたと言われる『耀盌』(ようわん)も大本の本部内には、そのうちの100点あまりしか所蔵されていないそうだ。つまり、三分の一がこの日お披露目されていたのだ。
このような機会に恵まれるとは!何の気なしに、こんな一生に一度あるか無いかの出来事が起こるのだ。誠に尊く有り難いことだ。
私は時間の許す限り食い入るように、『耀盌』(ようわん)をひとつひとつ眺め続けた。
この世のものとは思えない、その美しい多彩宇治臙脂(たさいうじえんじ)の本物の色彩を脳裏に焼き付けるためだ。その景色、色の移りゆく姿形から発せられる神気は、慎ましく清らかな光の玉のようであった。
○楽焼き一つに祈念千回
楽焼(茶わん)一つ造るのに千回「惟神霊幸倍坐世」と唱えるのである。そうでないと棒でつきさすのだから壊れてしまうのである。
(昭和二十年四月三日 旧三月二日)○茶わんに魂を焼く
茶わんに魂をこめて百度以上の熱で焼くからエライわい。
(楽茶わんを焼く時、荘楽方にて 昭和二十年 山川日出子氏拝聴)
○アオウエイとアイウエオアオウエイは正当の言霊、アイウエオは二上がり、三下り。タントンツンテンチンは本調子。タンチンツンテントンは二上がり三下りである。鶏、馬、牛その他の動物の声は一切言霊に叶っている。
引用元 : 出口王仁三郎玉言集 新月の光 上・下 | 木庭次守 編
(昭和十七年十月十二日夜 大本農園有悲閣にて)
立春|一厘の白梅の花
夜が明けて、次の日は立春。今年は暖かいせいか、昨日とは打って変わって雨が降った。
私は水彩絵の具のパレットと水彩色鉛筆を出してきて、素晴らしい『耀盌』(ようわん)との出会いを思い出しながら、スケッチブックに少し色を溶いてみた。
相変わらず、下手クソやなあ。でも、何か嬉しい。それはかすかに、色彩自体が魂を帯びているように感じられたからだ。
ああ、まるで心が解凍されたかのようだ。筆先から、ふるさとの色彩が拡がりはじめた。これは現実の世界を超えた何らかの作用だ。
ありがとう、鬼はうち!福はうち!とても楽しかった。
王仁はうち!ふるさとのうち!
私の愛する、ふるさとのうち!
身近な自然から気づいた事
私は時間の許す限り『耀盌』(ようわん)をひとつひとつ眺め続けた。
色の移りゆく姿形から発せられる神気は、慎ましく清らかな光の玉のようであった。
ありがとう、鬼はうち!福はうち!
私の愛する、ふるさとのうち!
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