満を持していよいよ始まった、水無月まつりの花火大会。

川岸の水面にまるで合わせ鏡のように映える、田舎の打上げ花火はとても優美だ。

もともとは先祖の供養や鎮魂のため、川へ灯篭を流したのが始まりとされているそうだ。

田舎の花火はゆったり楽しめる

ちょうどいつも見に行く場所が、広い一級河川を渡る橋の上で、まるで合わせ鏡のように打上げ花火が川面に映る、とても美しい最適のスポットだ。橋の袂からずーっと真ん中くらいまで歩いて行くとさらに良い。

7月後半、田舎の花火大会はゆったりとして朗らかだ。人数も比較的少なくて過度の混雑も無い。昔のように家の近所で夕涼みしながら夜を待ち、夏休みの子供たちからお爺さんお婆さんまで三世代、四世代で楽しめる、とっても和やかなムードだ。


4,000発の打上げ花火はちょうど良い。40分の間にゆっくりゆっくりと上がる様は、少し物足りない気もするが、それくらいが丁度良いのだ。周りの観覧者を見ていると、われ先にという人は誰もいない。何なら途中で切り上げて早々に帰って行く人もいる。場所もまだまだ空いているし、もっと遠くの方から眺めている人たちもたくさんいる。とにかく欲がなく皆んな悠然としている。そんな雰囲気である。


そしてお盆に帰ってくる祖霊を迎え、もてなしたり供養するために、さまざまな準備をととのえる。

エンタメ化が進む地方花火大会への警鐘

田舎のの花火は、ゆっくりゆっくりと上がっていった。

それとは逆に、地方の花火大会までエンターテイメント化が進んで有料にされるところも昨今目立つ。

それだけならまだしも、バリケードを張って一般人に見えないように差別化するなど、行き過ぎのような気もするが、地域の行政サイドも不可抗力なのか、選択肢はそれしか無いのか。


ごく平凡な季節の行事や日常の生活様式が、ここまで経済原理に呑み込まれてしまうとは。


おそらく、SNSの急速な普及などによって一般顧客の心理が情報に傾斜しやすくなりイベントへの人流集中が尋常で無くなって制御が難しくなってきていることや、同じく価値観の変化によって各個人の良識に委ねる範疇では既に収まらない状況となっているのであろう。


デバイスにより拡張された情報や便利さと引き換えに、わたしたちは何か大切なものを見失いかけているのではないだろうか。

子供時代への憧憬と母との対話

合わせ鏡のように、川面に映る美しい花火。

私の母は花火が大好きだった。最後に一緒に見た花火は、大阪の天神祭の花火だった。


その3週間後にも、南丹の八木花火大会へ一緒に行こうと約束していたが直前に急逝した。


幼い頃から実家の近くで淀川花火大会を見て育ったせいか、とても好きだったようだ。


子供時代への憧憬か、母は花火を見ている時は夢中で、心はタイムスリップして生き生きと幼少期へ戻っているかのようだった。そして出店でたこ焼きを買うのも好きだった。それらは忘れ得ない光景となった。

きっと本心は、いつも誰にも邪魔されず、屈託の無い純真無垢な子供の心のままで居たかったのだろう。


私にとって花火は、母の思い出そのものだ。生きている間に大して何もしてあげられなかったが、花火を観ていると、薄れかかった些細な記憶も蘇ってくる。


そして心の奥底で、また懐かしい対話がはじまるのを楽しみにしている。

祖霊のスピリットを導く、迎え火・送り火としての花火

花火はあくまでお盆の慰霊として、また祖霊への鎮魂からはじまった行事。

もともとは、お盆の慰霊としてはじまった打上げ花火。江戸中期に疫病の犠牲者を弔うために隅田川で始まったとされているそうだが、どうやら目に見えないスピリットの世界へのサインでもあり、祖霊への感謝の気持ちを意思表示させるものでもあるようだ。

日本ではお盆の時期、一般的に先祖のスピリットが家に帰ってくると伝承されている。そんなことは世事にかまけて忘れ去っていたとしても、確かにそう思える節や、襟を正さざるを得ない事象に気づかされる。


そのうちに出来るだけ祖先の意思に耳を傾けてみようという心構えが芽生えてきて、いつの間にか日常に溶け込んでシンクロを生み出している。これは宗教ではない、ある種のシャーマニズムだ。この霊的な解釈についてはいろいろ諸説あるだろうが、わたしはそれを単純に対話と呼んでいる。

人々のたわいも無い日常会話や概念によるコミュニケーションを超えたところにある、以心伝心とでも言おうか、テレパシーに近い。


対話はやさしさから生まれる。生きとし生けるもの全てに自分自身を開いて、どこまでも信じられる素直な眼差しから。

死者のスピリットに対峙して内省し静かに座っているとき、いろいろと教えられる。
祖霊を敬う心から慈愛の質が生みだされるのだ。心の奥深い層を通じてそれはしみじみと伝わってくる。


日本の花火は、祖霊への感謝と鎮魂という霊的素地があって継承されてきた。祖霊から私たち人類へのメッセージは、ただ正気に戻って本来の、太古からの叡智とスピリットに目覚めること。


いまが、そのときだ。

身近な自然から気づいた事

夏の風物詩

田舎の打上げ花火はとても優美だ。
もともとは先祖の供養や鎮魂のため、川へ灯篭を流したのが始まりとされているそうだ。

祖霊を敬う心から慈愛の質が生みだされるのだ。

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